☆ バイク ☆

スタッフのひとりごと「バイク思い出話編」

はじめに:16歳で原付の免許を取ってから25年間、常に生活の中にバイクがあった。それぞれのバイクに思い出があり、今回の「スタッフのひとりごと」を始めたと同時に記憶をたどってみた。あきらかに私の思い入れだけで書いているので、HP上にそれも会社のサーバー上にアップしていいものかどうか悩んだが、オーストラリアでのバイク生活を考えている人がいるとしたら、多少なりとも参考になるのではないかと思う。また、「スタッフ紹介」として一歩踏み込んだものであるため、「こんなやつが書いているんだ」と思っていただけるだけで幸いである。

二輪車歴:日本国内⇒スズキ・ハスラー50⇒カワサキZ400LTD⇒カワサキZ750D1⇒カワサキGPZ1100/ホンダ・モンキー50 オーストラリア⇒ヤマハTW200⇒カワサキGPZ750ターボ⇒スズキGSXR1100⇒スズキRGB250γ⇒ヤマハVMAX(現在所有)⇒未来:ヤマハMT-01(夢と終わる気がするが…)

スズキ・ハスラー50 16〜17歳頃:16歳で原付免許を取ってから最初のバイク。納車日に川の土手を登ろうとしてそのまま後ろにひっくり返る。ダメージ人間なし、バイク少しだけ。あの当時はたしか原付はノーヘルでもOKだった。しばらくして、車に左折巻き込みにあい、バイクは廃車になるが人間は奇跡的にも無傷。目撃者によると車を一回転しながら飛び越えて着地成功。当時は器械体操をしていたので、体が勝手に動いた?この事故が原因で中型免許を取るために教習所に通っていたが、中退となる。

カワサキZ400LTD 17〜18歳頃:しばらくバイクは親父のカブを乗っていたが、中型をあきらめきれずにいた。しかしもう一度教習所行くのも…と思い、直接試験場へ受験に行き取得。で、買ってもらったのがこのバイク。多くの友人がZ400FXを求めていたが、なぜか私は同じエンジンを搭載している4気筒のLTD。待ちに待った納車日!(納車日の記憶は残るらしい)さっそく”親父”が試運転!?このバイクは比較的大柄だったため、のちの限定解除の練習に役立ったと思っている。

カワサキZ750D1 18〜20歳頃:高校3年卒業を間近に控えた頃、まずは車の免許を教習所へ通い取得。同時に限定解除のために試験場へ通い、3回目にて合格。卒業式に車で行くか750で行くか悩み、結局は車で行ったと記憶している。このバイクはLTDを下取りに出して、中古で購入。あの独特のサウンドは今でも忘れられない。いつかはもう一度750か900をほしいと思っている。オーストラリアに来たから何度か個人売買で売りに出た(900)のを見に行ったが、ノーマルのマフラーがついて無かったりといい出物にはめぐり合えない。一度まったくのオリジナルが売りに出たがあまりにも高いので見るだけであきらめた。(バイク屋のオーナーが所有していたせいだろう、新車同様だった)

カワサキGPZ1100(モンキー50) 20〜26歳頃:このバイクの思い出は沢山ある。当初はZ750ターボが欲しかったが、なかなか輸入されてこないので1100を購入することにした。このバイクはご存知の通りデカイ。特に私(身長165cm、体重60kg)にはデカイ。「後ろから見ると、人が見えない」。「2000ccクラスのバイクに見える」とかよく言われたものだ。この頃は東京で仕事していたので、通勤やツーリング、ちょっとお出かけなどなど頻繁に乗っていた。しかし、近くの商店街や銭湯へモンキー50で行っていた。(←あたりまえか) この頃の思い出ナンバー1はスピード違反を半年の内に3回したことだろう。それも毎回6点減点クラス。極めつけはモンキー50でやっちゃった3回目である。待ちあわせに遅れていたためほとんど全開で走っていた。それも桜田門前を!気が付くとミラーに白バイが…。捕まったと同時に頭はフル回転で”6X3=18は、免許取り消し!!”を考えていた。何をどう説明して、命乞いしても許されず”戦力外通告”のような赤キップを頂いた。あの時ほど落ち込んだことは今までないかもしれない。当然、出頭命令があり、たしか府中へ出向いて簡易裁判を受けることになるが、初犯で20点未満ということで、取り消しだけは免れる。しかし、今後ともよろしくお願いいたします。今後1年間でいかなる違反も犯した場合は取り消しに処すると言われ、最大の免停を受け、免許が戻ってから実家へGPZを置きに行った。点数が満点に戻るまで封印することにした。モンキーはたしか友人に貸していたので、手元には無かったと記憶する。モンキーは後、動かぬ体となって帰ってきたが…。話を免停一回目、二回目に戻すと、一回目は山手通り大崎周辺で、線路と交差するガード下は制限速度がたしか30kmのところ。二回目は仲間と日帰り下呂温泉ツーリングに行った日。行きの高速道で突然エンジン周りから爆音!が、止まって調べるとエキパイをエンジンに取り付けてあるはずのナットが1つなくなっている。しかたなく一番近い出口から出て、ナットを探すはめに。ナットはたしか個人経営の工場が開いていて、お願いして見つけてもらった。幸いガスケットは残っていたのでナットを締め付けて高速道へ戻り、遅れを取り戻すべく飛ばした…。しばらくするとサービスエリアの入り口付近で人が手を振っているのが見える。そこでまた赤キップを頂く。さらに遅れたが、先行しているグループには目的地である下呂温泉のそば屋で合流。拍手で迎えられる。東京から日帰りで下呂温泉へ蕎麦を食べに行ったツーリング。私にとって、忘れることの出来ない最も高い”蕎麦”となったわけである。思いで沢山のこのGPZはいまもなお佐原の実家に置いてある。

ヤマハTW200 26〜28歳頃:オーストラリアにワーホリで来て車がないと不便この上ない事がわかり、予算の関係上中古の車か小型のバイクか悩み、中古の車はどれも廃車同然のものしかなかったため、新車でTW200を購入する。今思えば日本の常識?では廃車同然の車も普通に走っていた。が、当時は中古車の見極めなどできなかったし、不慣れな土地ということもあり、安心度100%の新車のバイクを選んだ。しかしこのバイク、時速100kmで走ることには無理があり、町をちょっと出ると制限速度100kmになるこの国では遠乗りには向かないことを後で知る。この頃はゴールドコーストのサーファーズパラダイスで生活していて、よくビーチを走っていた。(←場所によっては違法だったかも)休み(当時板前をしていた)になるとヒンターランド、バイロンベイなどへちょっとしたツーリングへ出かけていたが、ビーチを思いっきり走ってみたくなりブリスベンの北にあるヌーサからレインボービーチへ行くことにした。第一回目は何も考えずに行ったためヌーサまでたどり着くも、日も傾き始めその先は断念し家へ戻る。第二回目は暗いうちから出発し、レインボービーチを思いっきり走り(というよりただただまっすぐ砂浜を走った)家に戻ってきた。ヌーサまではハイウェーを走ったが、前記したようにスピードは制限速度を下回り、大型車にもバンバン抜かれとっても疲れた。また、ビーチ走行は思ったより燃費が悪く(あたりまえだが、当時は考えてもみなかった)、予定よりかなり早くリザーブを使うはめになり、それも復路のビーチ出口のだいぶ手前で…。あせっていたせいか出口を行き過ぎさらにあせって戻って出口を探し、脱出成功?で何とかガススタンドへたどり着いた。セーフ!帰りはまたまたハイウェーを走るわけだが、昼と夜の気温はこれほど違うものかと思い知らされた。雨具を着ても耐えられず、新聞を沢山買って体に巻きつけたことを覚えている。それでも寒いが、ないより全然ましだった。TW200は後に今住んでいるケアンズへ行く時に列車に乗せて運んだ(私は飛行機で)。間違っても乗って2000km離れたケアンズへいこうとは思わなかったのは言うまでも無い。ケアンズでもTW200は毎日の足としてとっても便利だった。がしかし、ケアンズへ来たのはちょうど雨季が始る頃だったので、雨にけっこう泣かされた。熱帯性気候のケアンズではスコールと呼ばれる一部の地域だけ降ることがあり、家を出るときは晴れているのに目的地へ着くまでにスコールにやられる。会社への出社が朝方6時頃、帰りが7時頃、ともにスコールが降りやすい時間帯でもあった。ついにTW200での通勤をあきらめ車を中古で買った。それは友人からは”よせ”といわれたタイプの車である。このことは別の機会「車思い出編」がゆるされるなら書きたいと思う。日常の足が車になり、TW200はほとんど乗らなくなったのを機会に手放すことにした。

カワサキGPZ750ターボ 29〜32歳頃:TW200を手放してしばらく経つと、手元にバイクがないことが不自然であることのように思えてきた。そんな時”あの”ターボが中古で売りに出ているのを見つけた。一度は試乗会まで行き、注文までしたバイクであるから欲しいわけである。バイクのコンディションはそれほど良くないけれど、値段もそれなりだったので、買ってしまった。 第一印象(日本に居る時試乗会で一度は乗っているが)はターボ特有のサウンドが良かった。乗り味は兄弟車?のGPZ1100を乗っていたので、それのと比較になるが、このバイクはやはりターボが効きはじめる回転域が楽しい。(←あたりまえか?) それとこれまたターボによるものだが、エンブレが効かない…特に買ったときに付いていた社外のマフラーがダメになり、エキパイに同径のパイプを継ぎ足しただけにしたので…。結局”一時の夢”で買ったが、コンディション上長距離には不安でもっぱら週末の近場だけを走っていた。結局大掛かりな修理もせずに、バイク好きの部下に売ってしまった。(彼も数年は乗っていた)

スズキGSXR1100 33〜35歳頃:このバイクは弟が日本から来て、オーストラリアを旅行するために買ったバイクを引き取ったことから乗ることになった。ちなみに弟は数ヶ月でオーストラリアを一周して帰ってきた。距離にしてどのくらいだろうか?国土が日本の約21倍、南北に約3700km、東西に約4000kmだからそうとうなものであろう。帰ってきた時に聞いたけど忘れてしまった。(←ひどい兄である…)弟は英語も出来ないのによく完走したものだと今でも思う。英語が出来ても私には出来そうもない。弟の経験とくらべるとかなり軟弱なツーリングであったが、TW200を乗っているワーホリの頃にオーストラリアサファリをいうレースがあり、たしか1990年だったかの年に”レース観戦ツアー”なるものに参加したことがある。参加者のほとんどが日本から来ていたが、当地での参加募集があり参加した。最初はTW200でと思ったが、主催者からのアドバイスでYAMAHAのTT350をレンタルして参加した。(←大正解だった)この年はたしか柏原芳江さんが”レーサー”として参加していた。ほとんど会う事は無かったが、というよりそんな余裕が無かったというほうが正しいか。シドニーから出発してダーウィンまで7日(もうすこし長かったか?)で走りきるという”レース観戦ツアー”というより、”おのれの耐久ツーリング”になっていた。朝は4時起き、6時には出発、次のキャンプ地にたどり着くまで走りつづける。なぜならレースで使うキャンプ地に泊まるからである。ほとんど到着は夜になり、暗いうちから出発するので、キャンプ地がどんなところにあったかは分らない。シャワーなどもあったようだが、結局使わずにダーウィンまで行ってしまった。開催時期は8月なのでオーストラリアの南の方の内地は寒い。一晩過ごした2日目の朝、テントの上には氷が張っていた。極寒用装備で望んでいたので、夜は寒さを感じずに眠れたが、日本から来たみんなはそれほどの寒さとは知らず大変だったようだ。バイクに乗る格好のまま寝袋に潜り込んでも寒かったと言っていた。話がGSXRからかなりそれてしまったので元に戻すことにする。えーGSXRは速かった。ライディングポジションがいいのと、カウリングのおかげでスピードを出すのに何の負担も無かった。そういう意味では今まで乗ったバイクで一番ではないか。日本での免停の経験から常に後ろを見て?先を見て注意を怠らず走っていた。前記したが町からちょっと出ると制限速度100kmのお国柄である。飛ばすにはもってこいである。それになんとケアンズにはいくつかのワインディングロードがある。キュランダ町への峠道はケアンズから近くて適度なコーナーで路面の状態もよく、チョイ峠乗りにはもってこいである。ちょっと足を伸ばせば(往復2時間以内)ポートダグラスへ行く途中にある右は海、左は崖という景色の良いワインディングロード。更にはケアンズから南下した所にあるゴードンベール町から山へ入って行くギリースハイウェイがある。ここは前記のどこよりもコーナーがタイトで、コーナー数はどこよりも多いので攻めがいがある。GSXRで週末よく出かけていたものだ。しばらくそうしてお付き合いしたが、Fフォークからのオイル漏れが何度修理しても直らない。バイク自体もちょっと疲れてきていたし、私もそうそう峠を攻めるには疲れがでてきた。ここはこれ以上悪くなる前に乗り換えようと決意して下取りに出す事にした。それに幾らだったか$を出して新車のガンマを手にする。

スズキRGB250γ 35〜36歳頃:(3月22日記)ガンマは軽かった(←今までの4ストの大型車と比較すればあたりまえのようであるが、第一印象である)。まずは慣らし運転なのだが、なにせ2スト250ccである、さらにはオーストラリアの道路事情で(家から出たところは60km/h、数百mいくと80km/h、10分も走れば100km/h)苦労させられた。慣らしさえ終われば”あのピーキーな”、いままでにない体験ができると頑張った。しばらくして慣らしが終わり、ワクワク、ドキドキでエンジン全開!たしかにいままでにない感覚である。さっそく峠に持ち込んで走り回った。腕前が上がったと錯覚してしまうほど、コーナーリング速度は上がった、登りでは…。下りも今までとは比べ物にならないくらいよくなるが、ライディングポジションがポジションである、ただでさえ前のめりなので、下りでさらにきつくなる。基本的に下りは嫌いなので、ライディングの心地よい気持ちより、苦痛のほうが強くなる。そんなこんなでふと思った。「この歳になって、峠を攻めていていいのだろうか?この辺の峠はガードレールのないところも多いし、もしいっちゃったら痛いではすまない。」 それに大型車に乗りなれていたので、ガンマでは絶対的なパワーはどうしようもない。結局、ほとんど新車同様のままバイク屋に売ってしまった。(慣らしが終わっていたので、新車以上の価値があったかも?) しばらくして、多くのメーカーの2ストの生産が排ガス規制のため終わった。今思えば、貴重なバイクになっていた気がして残念である。このガンマとはほんとに短い付き合いだったが、2スト独特の持ち味は体験することが出来たし、将来消え行くものであるだろうし、長くは乗らなかったけど、将来子供でも出来たら話そうと思う。(←いずれにせよバイクの話は長くなりそう…)

ヤマハVMAX 36歳頃〜現在:入手までの話
ガンマを手放して少し経った頃、ケアンズポストというローカル新聞の個人売買欄(土曜日に沢山出ているので、必ず見ている)にVMAXが極上のコンディションで売りに出ていた。こちらの人が言う”極上”とはおおむね日本でいえば並以下のことが多い。車の場合、数年落ちで5〜7万キロはあたりまえで。バイクでもほぼ同じようなことが多い。今までにZ900を何度も見に行ったが、どれも前記の状態である。このような疑心である私はVMAXも半分は諦めていた。この頃ガンマの経験から、アップハンドルでライディングポジションが楽なバイクを探していた。さらにはパワーも欲しい。スタイルも重要である。こうなると車種は限られてくる。これらの条件を満たすのはVMAXだけではないだろうか?しかし、この時すでに輸入されていなかった。新車では買えない。残すは中古であるが、それほど出回っていないバイクである。きっと人気がないのであろう(オーストラリア人の気持ちがわからない)。一度バイク屋で、日本から個人輸入したVMAXがあったが、程度が悪すぎるにもかかわらずいいお値段がついていたので諦めた。また話が飛んだが、極上VMAXが見つかった。売主はマリーバ(当社が熱気球を飛ばしている地域)に住んでいて、家庭の事情で売らなければならないと言う。走行距離も少なく、二人目のオーナーであるらしい。じつは先日最初のオーナーで出会った。ケアンズのヤマハディーラーにMT−01の話を聞きに行ったのだが、VMAXを路肩に止めたら男が車の助手席から降りて向かってくる。バイク屋の入り口ではなく私のほうへ。まずは一般的な挨拶をしたのだが、珍しいバイクなので、声をかけられることが多いため、又今回もと思った。彼は言った「このバイクはもともと私が新車で買ったんだ。買った後すぐに青くペイントして…」ここまで聞いて信じるに至った。そして「マリーバの人に売ったんだ」等など、最後に大切に乗っているようで嬉しいとも言っていた。私はちょっとした感動に包まれた。(普段はなかなか感動しない私であるが…) またもや話がそれたので、本線に戻ると第二のオーナーである売主のところへ約束を取り付け見に行った。一目惚れであった。あとは試乗と値段交渉である。試乗はオーナーの後ろに乗ってしかさせてもらえなかったが、何ら問題はなかった。外見はもちろん問題なし。値段交渉は提示額からの値引きは一切なし。交渉の余地はなかった。即決して手付金を払い帰途に着く。1週間ほどして売買成立に必要な書類製作、残金支払い、バイク引渡しをすることになり、マリーバまで行くと言ったが、彼はケアンズまで最後の走りをさせて欲しいと言うので、レージングサンダーのオフィスで待った。その日はバイクの音を社内で聞き、彼とVMAXの到着を知る。残金を支払い、キーをもらった。書類は彼が用意していたので、私は必要なところに記入してお役所へ届けるだけである。新品の後タイヤ、ノーマルのタンデムバーなどもあわせて持ってきてくれた。彼は名残惜しそうに帰っていった。「家族が増えたので、手放さなければならなくなった」という彼の言葉を思い出した。これからは私が大切に乗ります。(←ちょっと感傷的になってしまいましたが、バイクに関しては何でもありなので…)
バイクを手にするまでだけでこれだけ長くなりすみません。

ヤマハVMAX 36歳頃〜現在:(3月25日記)乗った第一印象の話
いままでドライブシャフトのバイクは乗ったことがなかったので、あのクセは新鮮だった。なれればどうということはないし、もう気にならなくなった。VブーストはGPZ750ターボと同じような感覚であるが、ライディングポジションが違うため、何度かやばい目にあった。幸い大事には至らなかったが、加速し出したらアクセルが戻せなくなる(体が後ろに置いていかれるから)こと数回…。それ以後は体制を整えてからアクセルを開けるようになった(←あたりまえではあるが…)。ハンドリングは今までのバイクと較べると最低であった。いわゆる曲がらない、倒れないというやつ。ついでに止まらない。(←これはブレーキの話であるが…)買ってからしばらくしてFタイヤを別の銘柄に変えたら、こんどは倒れすぎる、といってもこれで普通だから、なれるといい感じである。止まらないはノーマルブレーキでは宿命なので諦めている。総評:なっとくの一台です。長い付き合いになるであろう予感がしていた。

ヤマハVMAX 36歳頃〜現在:いじった話−バイザー
ノーマルのVMAXは十分魅力的である。が、世の中にはこれでもかといじったVMAXがある。インターネットで探せばあるわあるわ!世界中にある!!そこまで出来ないにしても、ドレスアップなどしてみようと思ってしまうのはこのバイクならでは?
購入した時点では、大型のシールド(風防?)、シーシーバー、エンジンガードが付いていた。シーシーバーとエンジンガードはいいとして、大型シールドはちょっといただけない。たしかに走行してて楽(制限速度は100km/h)だったけど、それほど長距離を走ろうとは思っていないので、外すことにした。今付いているのはバイザータイプで、ゴールドコーストへ遊びに行った時に覗いたバイク屋でたまたま見つけた。
この続きはまたあとで。

いじった話の続き−バッテリー:(4月7日記)
風防からバイザーに替わって、ずいぶんスマートになった。いい感じである。高速走行での風除けにはならないが…。判っていての変更なので納得。次に手を加えたのはどこだったか…?たしかバッテリーからの延長コードだったと思う。ま、話の順序が違ってもいいとしてください。VMAXを知る人はご存知の通りですが、バッテリー関係が弱い。バッテリーが小さい、充電関係が弱い等などの理由があると思うが、頻繁に乗ることがない私には大問題である。家を出るときには弱弱しくであるがエンジンはかかるものの、出先でいったんエンジンを切るとかからない。バッテリーを頻繁に充電したり、交換したりすればいいのだろうが、なにせシートを外して、部品をいくつか外してやっとバッテリーにたどりつくので、実に面倒であった。このような状況で乗っていたので、止まる時は押しがけし易い場所に止める。お約束どおり押しがけとなる。特に大変なのがガソリンスタンドでである。そのうち家でもかからなくなる。この場合は最悪で、エンジンが冷えているからそう簡単にはかからない。車庫から出るには5mほどのちょっとした登り坂があるので、押して出るには…重い。そんなわけで、延長コードをバッテリーの端子から出して、ジャンプスタートできるようにした。車(スバル−アウトバック)のバッテリーとつないで楽ちんスタート。これで全てが解決したわけではないが、最悪出先でジャンプスタートが必要になったらなんとかなる。しばらくはこのような状況で乗っていた後、新しいバッテリーに交換してしばらくは問題なし。が、しかしいつかは同じ状況が訪れることは間違いないので、何とかしたかった。で何とかしたのはこの1年くらいだろうか、まずバッテリーを外さずに充電できるチャージャーをGETする。セットアップにはバッテリーの位置関係のため前記したように面倒ではあるが、一度付けてしまえばこっちのもんである。充電は3日ほどかかったと記憶している。微弱電流だろうからそんなもんか?しかし充電器は熱くなりすぎてケースの一部が溶けて、ケースが壊れた。たった1回の使用で…。買ったところへ持っていくと、新品と交換してくれたので良しとする。(ちなみにその後、その新品はまだ使っていない。そろそろ充電しないといけないな…)この充電器を買ったついでにバッテリー液に入れる、強化剤?なるものを買って入れてみた。気のせいか放電が少なくなったような気がするし、今までの買い替え時期を過ぎてもまだいける。(ここ1ヶ月以上雨が多かったので乗っていないから、この週末にも確認してみよう。充電もしなきゃ。←また溶けたりして…)バッテリー関係はこの辺で終わります。次回はハイテンションコード、プラグあたりでしょうか。